平成時代に自分を支えてくれた全ての人たちへの感謝と引退を伝える公の場として、安室ちゃんはNHK紅白歌合戦を選んだ。(第68回NHK紅白歌合戦 2017年12月31日放映画像より)
6.引退を考えはじめたのはいつ頃からか。理由は?
「今日は、私が長年心に思い、
この25周年という節目の年に決意した事を書きたいと思います。」
2017年9月20日の安室ちゃんの引退発表はこの一文を先頭にした短い文章で終わっています。
2016年から始まる100回公演の敢行や沖縄での25周年ライブの成功など、まだまだこれからという感であった時期でした。引退理由には触れていないうえ、「長年心に思い」という言葉が様々な憶測を呼びました。いったい安室ちゃんはいつ頃から引退を考えていたのでしょうか。なぜ引退したのでしょうか。
安室ちゃんのコメントを追ってみると、引退を考えた時期は四つあるようです。
・最初は、デビューの時。
・次は、母の不遇の死に際して。(1999年(平成11年)半ば頃)
・三つ目は、「SUITE CHIC」プロジェクトに参加する直前の時期。(2002年(平成14年)前半ごろ)
・最後はデビュー20周年にあたる2012年(平成24年)。
前出[7]NHK「告白」では以下のようにコメントしています。
「始まりがあれば、絶対に終わりもある、デビューがあれば絶対に引退が来る、ていうのがニコイチのセットでデビュー当時から考えていた。」そして引退するときには「大きなコンサート会場を一杯にして引退コンサートをする」
デビューが決まって夢いっぱいで上京した安室ちゃんらしい、のびのびとした言葉です。まだ漠然と「引退」を意識しただけでしょう。しかし、どう引退するかという目標イメージをずっと頭の片隅にもち続け、それをゴールとして歩み続けてきたという点で重要な言葉です。また「デビューがあれば絶対に引退が来る」という客観的な思いは、その後小室哲哉さんプロデュース時代でも、その終了後を見据える姿勢をとることに繋がっています。前出[1]のインタビューでは小室哲哉さんプロデュース時代は色々なことを周囲から吸収する時期であった意味のことを言っています。安室ちゃんは非常に自立したモチベーションで「(歌手として)敷かれたレールの上を走っていた」(本人談)わけです。このことがセルフプロデュースを成功させる下地となったのでしょう。
そんな安室ちゃんでしたが、産休復帰直後の母の突然の不遇の死は当然大きなショックであったわけです。マスコミのセンセーショナルな扱いもあったためか、歌手活動を辞めることも考えたようです。しかしこの時には結婚し夫がいて息子さんも授かっており、それらが思いとどまらせたのでしょうか。
三番目に引退を考えた時期はいつなのでしょうか。前掲[7]NHK「告白」のコメントに次のような部分がありました。「相談できないっていうことが、いちばんの大きな悩みであって、引退という文字がちらついた時ですら、引退のことを誰かに相談するとか言うとかということができず、その時にデビュー当時のことを思い出すことがあって(後略)」と引退という選択肢を考えた時期があったことを言っています。そのコメントの続きに以下がありますので、その時期はSUITE CHICプロジェクト開始前の2002年(平成14年)前半ごろではないかと思われます。「もがけばいいじゃんと考えて、SUITE CHICなどのアルバムをつくり始めたりとかして、」 この時期は先のコラムでもふれた、一番悩んでいたが相談できない辛い時期にあたります。
これまでの三つの時期の「引退」はやや漠然としたものだったでしょう。しかし引退というピリオドが来るであろうことはずっと客観的に自覚していた安室ちゃん。具体的に引退を考えた時期は、前出[7]NHK「告白」でもコメントしているように、20周年となる2012年の一年間。「リアルに引退が目の前にきたのが20周年のときだったので、(中略)20周年の1年というのは、自分の気持ちを精査する1年。(後略)」でも「20周年が終わったときに最終的には引退することができないと知ったので(後略)」次の25周年を引退の目標時期にして、その間の活動プランを考えて実行してきたと述べています。日本中を衝撃が突き抜けた2017年(平成29年)9月の引退発表をさかのぼること5年も前に決断していたとは、驚きでした。引退までの5年間は毎年アルバムをリリースし、ライブを開催する。最後のアルバムをオールタイムベスト「Finally」にすることもこの時期に決めたのでしょう。「LIVE STYLE 2016-2017」 100公演は秘めた思いで、全国のファンにお礼を述べる感謝のホールツアーであったと言っています。
「最終的には引退できないと知ったので」の意味が、安室ちゃんの気持ちの整理がつかないためなのか、20周年沖縄野外ライブが台風のため中止となったためか、それとも別の外部的要因が主だったのかはわかりませんが、2015年(平成27年)までには自身の事務所とレーベルに移籍し、版権も調整しています。そして全曲未発表かつノンタイアップのオリジナルアルバム「_genic」をリリースし、同時に「namie amuro LIVEGENIC 2015-2016」44公演を敢行。どちらも大成功をおさめます。この後、前述の「LIVE STYLE 2016-2017」 100公演をおこなっているので、最終的に引退可能と判断した時期は2015年後半あたりではないでしょうか。
引退の理由について、安室ちゃんは前掲[6]で次のようにコメントしています。「うーん、何だったんだろう。(やや考え込んだ後に)ファンの皆さんの中に「いい状態の安室奈美恵」を思い出としてのこしてほしいなって。一つのゴール地点はそこだったりしていたので。ちょっと声帯もいろいろ壊してしまって、そういう不安もあったりはしていたので、そろそろ声帯も限界なのかなとか、声がうまく出ないなとか、そういうこともあったりはしていたので。(このあとナレーションで)安室さんは7年も前に歌手の生命線とも言える声帯を壊していたというのです。」
確かに2010年(平成22年)10月の「namie amuro PAST<FUTURE tour 2010」東京公演は声帯炎のため中止振替、2011年(平成23年)11月の「namie amuro LIVE STYLE 2011」横浜アリーナ公演は急性上気道炎のため途中中止振替となったことは、以前から知られていたことです。特に声帯炎は歌手のように喉を酷使する方々の場合は慢性化する危険性があり、風邪(上気道炎も含む)などをひくとすぐ再発する可能性がある、厄介なものです。しかしそのことが本当に主な理由なのでしょうか。曲の構成を調整すれば、2時間といわず5時間でも6時間でもライブで歌って踊れると安室ちゃんはコメントしていますし、現役を続けられるかについては「マドンナは60歳を超えても現役だし」と答えています。体力的にも精神的にも工夫次第で現役続行は可能と考えていたのではないでしょうか。
安室ちゃんが以前に所属していたライジングプロダクションの社長の平さんの2017年9月の引退発表の際のコメントが印象的です。「(引退の理由は)あいつの美学なんだろうね。」[19]
個人的にはこのコメントがしっくりします。ひょっとしたら大きなコンサート会場を一杯にして25周年記念ライブで最高のライブをおこなって「最高のいい安室奈美恵」をファンとともに思い出とするために引退をおこなったのではないかな、と思います。凄すぎます。